いつかあの頂へ

bufoの日記

サンフロッグ春日井

一般水泳教室 クロール 4日間


 運動不足の解消にと、このところ3日置きぐらいにプールに通っている。
わが家から車で15分、50メートル競泳プールと、別館に25メートルプールの横に流水プールとスライダー2基を備えた立派な施設である。


帽子をかぶりゴーグルをかけ、それらしい格好で30分も水の中にいると、なんだか疲れてそれなりの効果があるような気になる。
 しかし平泳ぎの真似事や流水プールで、ウオーキングをしているだけではなんか物足りなく思っていたところで、水泳教室の告知発見、即申し込んだ。

第一日(2005.6.28 Tue)


  30代から60代のおっちゃんおばちゃん16人、息ができる人とできない人、2組に分かれて準備運動。水の中で息の仕方を知らないクラスに入って、まずプールへの入り方からレッスンが始まった。


「水に入って、鼻から吐いて、口から吸って、ハイ、ウーン、パッ、ブクブクブク」
 初日の一時間はあっという間に終わった。

第二日(2005.6.29 Wed)


美人のH先生はいかにもベテランらしく、我々中高年相手に手取り足取り、いや頭を引っ張たりして、やさしくてきぱきと教えてくださる。いい先生だ。


「腕は大きく回して!」


 かっこよく泳ぐには水をかいた腕を抜きながらちょっと肘の力を抜いて、フニャッとまえへまわすのがいいと思っていたので、おやっと思った。
「そうなの、腕を大きく回すことで体が回転して息継ぎができるの」


そうなんだ、生き抜くためには大きく回さにゃいかんのだ。
力を抜いて、頭を沈めて、大きくまわすんだ。大きく、おーきく。


五ケ所湾の海

 生まれてはじめて水泳ぎをした記憶は、ざっと60年まえにさかのぼる。


 八歳になったその年の3月、降りかかる焼夷弾の雨に、たまらず防空壕を飛び出しわが家を炎の中に捨てて逃げた。
どこをどう走ったか、鶴舞公園の市公会堂の地下室に逃げ込んで、一晩中窓の外の真っ赤な炎にみとれていた。


 文字どうりきのみきのまま、母の郷里へ向かった。
母と弟妹の4人、道中どうやって志摩の海辺の村にたどり着いたか、一切記憶がない。


その夜、狼の遠吠えを聞きながらおばの家に泊まり、翌朝庭に干してある布団を見るのがつらかった。生涯唯一の寝小便の記憶である。


 4月、その村の迫間国民学校に入学した。
疎開児童は東京から来たN君とわたしの二人、赤いランドセルを背負って海辺の道を通った。黒皮のランドセルは、タンスいっぱいの絵本や入学用品と一緒に先日灰になっていた。
たまたまこの村には女子用のランドセルしか残っていなかったのである。


 この学校でいわゆる水練の授業を受けた記憶がない。
目の前の海をへだてた山すそにでっかいトンネルを掘った予科練の特攻基地があり、やがて入り江から入り江へグラマンが機銃掃射を我が物顔にやるようになっては、子供の水練どころではなかったろう。


 夏になった。いくさが終わった。


 担任の女教師は生徒を率いて裏山へ登った。
頂上からは太平洋が見えた。
水平線が夏の陽にきらきら光っていた。
教師は子供たちに「よく見ておきなさい」といった。
国は破れた。




 予科練の若者たちが村を去る日、船と桟橋と、一緒に「ラバウル小唄」を歌った。
数日後、入れ替わりに進駐軍哨戒艇が猛スピードでチョコレートを持ってきた。


 男先生が「ベースボール」を子供たちに教え始めた頃、通学団の6年生が音頭をとって、水泳の練習をやろうという。
わたしはどこかから黒い布切れを探し出してきた。
納屋で必死になってなれぬ針をつかって縫った。
裸になって寸法を測っているところへ、先日復員していた父が顔をのぞかせた。
父とまっすぐ顔を見合わせたのはこのときが始めてのような気がする。
ふんどしか、とつぶやいて、ちょっと笑って去った。


 「新屋敷」の入り江は船だまりになるくらいだから、どん深である。
村の子供たちは、2メートルくらいの高さの船べりから飛び込んで遊んでいる。
年長の子供は船の底を潜ってあちらへ出てはフ〜とやっている。
昔この遊びで船底に張り付いて亡くなった子がいるんだよ、と母から聞いていた。

結局この日どんな泳ぎをしたのかあまり覚えていない。
みんなの泳ぎを見ながら水辺でぴちゃぴちゃやっていたぐらいだろうか。


 翌春、二年生になった。
父は病を癒しながら、家の前の海でナマコをとりキンコを作った。
母はドラム缶に塩水を汲んで煮立て塩を作った。
隣の家の井戸水を貰うのに、わたしは母と天秤棒を担いだ。
わたしの背丈は桶と変わらない、母はやりにくかったろう。


 そんなある日満潮の海に幸吉屋の船がもやってあった、道と同じ高さだった。
わたしは道と船べりに両足を乗せて、ゆらゆらゆれる感じを面白がっていた、と、突然船がふーと離れて、わたしの両足も広がった。
そのまま落ちた。そして沈んだ。


 岸の高さは30センチくらい、手がかかればどうってことのない高さだが、最初にしたたかに水を飲んで、浮いては沈みばたばたやるしかないざまだった。
水面が高いのが幸いした。
通りがかったおばさんが見つけてくれた。


 このあと数日、うなされていた。
万華鏡を見るとこのときの事を思い出す。
目の前に、天井に、ぐるぐる、ぐるぐるといくつも渦が巻いては消えてまた巻いた。


 秋になって、さきに名古屋に出ていた父から、仕事のめどがついた、家も借りた、出て来いといってきた。
その家は焼け残りの裏長屋だった。
2年半ぶりの名古屋の夜、3歳の妹は「おかあちゃん、はようなごやへ行こ」といった。


 家の近くに「向田プール」があった。
夏になると子供たちの天国だった。
今のように親が一緒についてくるなんて子は誰もいなかった、「水泳教室」なんてけもない頃だった。
楽しかった。
思いっきり飛び込んだ、思いっきり潜った。
だが泳いだことはついになかった。

第三日(2005.6.30 Thu)


 いよいよ息継ぎである。


ますます難しくなる。
順番に教わってきたことを、順番にやればいいのだが、いざ水に入ったとたんばらばらになる。


 この頃になると、生徒の個性というか、個人差が出てくる。
結果先生の言うことを素直にやった人、素直にできた人がちょっとリードしてくる。
 30代のS姉妹が最初に25メートルにタッチした。
ふたりとも優雅にゆったり体を動かす。
息継ぎの顔は真横に大きく開いている。


 インドネシア人のAさんが3番目、最初足ばかりばたばたやっていたのが、その足が静かになるにつれ泳ぎがまとまってきた。


 4番手がなんとうちのかみさん、彼女が泳ぎきったとたん、同年輩のYさんが「かぁちゃんにまけちゃいましたねぇ」とうれしそうに握手してきた。

『はい、泳げません』 高橋秀実 著


 月末、いつもの「室内」を買いに本屋へ寄る。
柳沢桂子さんの「般若心経」と一諸にレジへおいて、ふと新刊本コーナーを見ていると変な本が目に付いた。
青いカバーに「はい、泳げません」とあるではないか。
まるで俺のことを言ってるみたいだ、あんまりタイミングがよすぎるぜ、とぱらぱらと立ち読み、しかしなんかの因縁じゃなかろうかと、つい衝動買い。


 帰ってから読むと、時に爆笑、時に納得、じつにおもしろい。
作者は2年間のスクールがよい、こっちは4日間の違いはあれど、同じカナヅチの身につまされて、読むほどに共感する。

 

第四日 (2005.7.1 Fri)


いよいよ最後の授業。


三日間のおさらいをして、皆さんだいぶそれらしくなったところで、『では、認定テストをします』の一言にまた緊張してしまう。


われながら、めちゃくちゃ、ばらばらの泳ぎだとわかっているが、しゃぁない、今日はこれまで、ベストを尽くそうと覚悟を決める。


 15メートルあたりで息吸いに失敗したとたん鼻の中に水がいっぱい居座ってしまってどうしようもない、呼吸不全,心筋梗塞、なんてこんなふうに死ぬんだろうかなどと考えながら、足と手だけばたばたやっている。

ほぼ潜水状態でもがいているとふっと手が届いた。
立ち上がって思いっきりせきをすると、先生が「やりましたね」と笑っている、とんでもない、先生僕は水死寸前でした、
「やれば出来るじゃないですか、ね!」


 いい先生にめぐり合えてぼくぁ幸せだ。
四日で泳げるようになるとは思ってませんでした。
これからせいぜい通って泳ぎに磨きをかけてまいります。
いただいた免状は額に入れて飾ります、
ありがとうございました。


 いつか、誰かに聞かれたらこういってやります、
「はい、もちろん泳げます!」