いつかあの頂へ

bufoの日記

  30年ぶりに坂君の名前を見たのはひと月ほど前だったか。

去年9月に急逝した「伊藤君をしのぶ会」が今日19日と20日立山室堂のホテルで行われるについて「坂です、出席します」という山岳部メーリングリストへの投稿メールであった。
そうか立山へ行けばかってのヒマラヤ遠征隊のメンバー諸君にも会えるのだなぁと思った。


 その坂君の突然の訃報を、同じMLに見ることになったのは4日前。
 明日20日に急用が出来て立山行きを取りやめた私が、坂君のお別れの会に出席する次第になろうとは。


 会場の「泉北メモリアルホール」へ着くとホールに若者たちがあふれている。
 受付に立って、彼が大学教授の職にあったことを知った。


 お礼の挨拶に立ったご子息は「父に自然の中で育てられ、今地質学を専攻しています」と語り、父のようになります、と結んだ。
 傍らに立つその母は、若き日、我が家の倉庫で彼とともにヒマラヤ遠征隊の物資のパッキングに忙しく働いていた、あの女姓がいま息子娘にささえられて、気丈にも彼への愛を語り、列席の人々に感謝の礼をする。


 遺影に向かって立った友人たちは、彼がいかに山を愛したか、どんなに学問を愛したか、どれほど人を愛したかを口々に語った。「父のようになります」といったご子息の心が分かったように思った。


 献花の順が来て、私はポケットから数珠を出した。宗教色を排したこの場での自分のしぐさに違和感を感じたが、かまわずそのまま手を合わせた。


 坂君、わかってくれただろうか。


 この数珠は君たち遠征隊の皆さんが、倉庫提供の礼にとかの地から持ち帰って呉れた、我が家へのお土産で作ったんだ。
袋いっぱいの菩提樹の種を、一番喜んだのはいまは亡き私の母だった。それを見た西裕寺の御縁さんが手ずから糸を通して作ってくださった数珠が10個ほど、いまもこうして私の兄弟や親類の男たちが大切に持っている。


 先年、山岳部先輩御如悟さんの葬儀から帰るとあの家は火事で消えていたが、その時偶然クリーニングに出していた、これもヒマラヤ遠征隊のお土産、美しいチベット絨毯とともに、無一物になった我が家に残された、かけがえのない家宝なのだ。


 だから君のお別れの会に、こうしてポケットに入れてきたのだ。

 さようなら、坂君。