いつかあの頂へ

bufoの日記

のこりて字あり

 Bufoは本が大好き人間である。
本に囲まれているとき一番心が休まる。
一年前このアパートへ引っ越して、天井下にぐるりと棚を吊った。
あっという間に一杯になった本を見てかみさんが言った、「地震が来て、本に埋まって死ねたら本望ね」 



 ロビーのベンチの横の電話台の下に、10冊ほどの本が立てかけてあるのが目に入った。
電話帳ではない。
なにやら文芸書のような。
まわりの200人近いお客さん、いや患者さんはたれひとりこの本棚に見向きもしないが、なぜかBufoの目が釘付けになった。
次の眼圧検査まで一時間ある。
中の一冊を手にとって読み始めた。
そして目が離せなくなった。



 三宅寅三 千代著「のこりて字あり」


 表紙にはどこかの森と湖の写真がハーフトーンで印刷されている。
 この本の前段は、この森と湖、日本軍玉砕の地から奇跡の生還をした三宅前院長なきあと、千代夫人が南の島に夫の足跡をを辿り、わずかな生還者を頼ってひろいあつめた事実から夫の生き方を確認する道筋を綴った文なのであるが、夫を信じて南の島をめぐる彼女の心が、ひしひしと伝わってくる文章である。


「三宅軍医の姿が近くにあるだけで兵たちは安心した」という、かろうじて生きて還った人のことばを読んで思わず涙がにじんだ。彼はひとを生かす為に戦場に身を置いたのである。



 本の後段に読み進むに及んで、感動と驚きはまた大きくなる。

 中国の前線から、名古屋の夫人に宛てた書簡の数々。
夫人の手紙が着かないと苛立ちを記し、幼い子供たちの成長を喜ぶ文章は、戦地にある父の当然の心情でほほえましくも読めるのだが、実は手紙の中身のほとんどは、歌人である夫人と交わす、同時代の歌人から万葉集に及ぶ歌論であり、その歌集歌論や、医学書などの書物を送ってくれという依頼の文が大部分を占めるのである。
銃後の妻は名古屋の古本屋を走り回っていたんじゃないかと想像されるほどの頻度で書き送っている。


 読みすすむうちにふと気がつく。
 情熱的な和歌談義は夫人への愛であり、「この本送れ」は軍医の勤めを果たす為、心の空白を埋める為であったろうが、なんとこの文章を書いたのは激戦の荒野に生きる三十そこそこの男のものなのだ。


 そして手紙の中に、戦争のことは一言もない。
司令官が「三宅軍医に陛下の感状を」と褒めちぎったことといい、先の兵の言葉といい、恐らくは命を削る戦闘の後の、疲労困憊の中で綴った文章のはずだ。
だが戦い、敵、死、という言葉は、いっさいない。
 手紙の中には、家族と歌と書物しかない。


 ただ数多い歌の中にこういうのがある。


    石仏を訪う

  仏等の 顔のさまざま見てしあれば
        いくさする身を しばし忘れつ 
                       寅三 
     

 「ふるさとの父母に孝養をこう」
 さりげない、心をこめた別れの言葉を記した手紙を最後に、書簡集は終わる。


部隊が南方の島に転戦したのだ。



戦死の公報が来る。 
千代夫人は夫の死を信じなかった。


そのころ玉砕の島レイテ島で、彼は湖のほとりに倒れているところを現地人に助けられた。



7月5日
 今朝も8時前から患者さんがつめかけている。
朝食後2回の検査のときもこの本を離さず院内をあちこちした。


11時半、読み終わって呆然としていると名前が呼ばれた。
 院長先生の前にかしこまる。
書簡集のなかで、唄が上手になった、と戦地の父を喜ばせた長男である。
緑内障ではありませんでした」 彼の診断はいつも簡潔である。
「安心しました、今後のご注意は」
「まぁ、折を見て眼圧の検査に来てください」
「ありがとうございます」
手にした本を示して、言った
「入院中にお母様のご本を読ませていただきました」
「いやぁ」
彼はちょっとほほえんで、すぐカルテに目を落とした。


 たくさんの患者の間を抜けて、ロビーの電話台に本を返して病院を出た。


 大曽根の街を歩きながら、なんだか目がよく見えるような気がした。