いつかあの頂へ

bufoの日記

伊勢湾台風

 
 50年前のこの時間、
家族全員が二階の8畳間に集まって眠れない夜をすごしていた。


   名古屋の真ん中、東別院の近く。


 吹きつのる風に、必死に雨戸を押さえていた。
波打つ風が、息を吸うように雨戸を外へ引き剥がそうとする、
桟をつかんで引っ張られまいと歯を食いしばる。
夕方雨戸の外から打ち付けた桟など何の慰めにもならないような猛烈な風の力。


 母と妹たちは、bufoが山登りの天気図作製用に買ったトランジスタラジオを囲んで聞き入っている。


 やがて突然風向きが東から、南に変わる。


 明け方、風の音が無くなった。


 疲れた体を横たえて、深い眠りに落ちた。


 あくる朝目覚めると、二階の大屋根の瓦が南側2列、剥がれ落ちて、
一階の工場や事務所の屋根に散乱していた。


 その日一日、屋根に上って手当てした。
 夕べの嵐がうそのような快晴であった。



    この時、この同じ空の下で、5000余人の命が失われていたことは、
   微塵も知らなかった。
   ラジオもただ北へ向かった台風の進路を伝えるだけであった。
   50年後の回顧記事を読むと、
   報道機関の記者でさえ、三日後に、ヘリから見下ろして、
   泥海と化した、町の惨状を知ったという。

 
 翌日、大学へ行くと、自治会が呼びかけている。
 その場でチームを作って、
 状況把握のために各地へ飛んだ。


  bufoは山岳部の一年生S君と知多半島の視察を振り当てられた。
 海岸沿いに走ると、嵐の後の静けさ、の言葉通り、しんと静まりかえっていた。



  翌日から登校してきたすべての学生を集め、自治会で救援隊が編成された。
 bufoは、山岳部の井口君と組んで、白鳥橋の救護所の手伝いに行くことになった。


白鳥橋までは約10キロ、足はヒッチハイクしかない。
 「全学連」の腕章を巻いて、滝子の電車道で手を上げて、トラックを停める。
 荷台によじ登ると、なんと十数人の警官がいた、ヘルメットに、「機動隊」の文字があった。(キャンパスに安保反対の嵐が吹きすさび、街にデモ隊がうねるのはこの翌年のことである)


 白鳥橋へ着くと、北詰にテントを張って、中京病院の医師看護婦がいた。
井口は医学部、何とかカルテに書き込めるが、こちらはドイツ語も落第点の文学部、やっとこさ聞き取って、カタカナで書く。


 だが,周囲の惨状のなかで、医師たちも驚くほど、この救護所に駆け込んでくる市民が少なかった。
みんな跡片づけでそれどころじゃないのだろう、
この後の伝染病が心配だ、と先生たちが話していた。


 歩いてくる道々数体の遺体を見たが、この橋に並べられていた遺体は、昨夜やっと片付けられたばかりだという。

 実際、南区役所に向かった同級生などの話では、
構内に並べられた無数の遺体の処理に当たって、数日匂いが取れなかったという。




 この海を3.8メートルの高潮が襲った。
堤防を破って0メートル地帯になだれ込んだ濁流は、
平屋を押し流し、二階家の天井を押し破った。


 当時木材産業盛んな名古屋市内のすべての川や貯木場を埋めていたラワン材のいかだが破れ、
直径1−2メートルの丸太が町を暴れまわった。


 台風・・・高潮・・・堤防決壊・・・家屋の浸水・・・・・巨木の奔流・・・・・・
   


このシナリオをついに誰も予想できなかったのか。



 「適切な避難情報が出されていれば、犠牲者の数は20分の1にできた可能性がある」
中央防災会議の報告書に、こんな文言があるという、今朝の「中日春秋」の一節はかなしい。

 

 

 昭和34年9月26日


 この前日、竣工間じかの名古屋城天主閣の大屋根に跨って、
土建屋の社長と、役人が将棋を指した、
これに怒ったシャチが、水を呼んだ・・・・・・


 数日後、こんな風聞を伝える記事を読んだ記憶がある。











・・


 お願い・・・・・さかのぼって 古い日記を読むには 一番下 右の 前の10日 をクリックしてください。
一番最初はこちらです ・・・・http://d.hatena.ne.jp/bufo/20010603